―――それは、或る意味で俺が被った怪我の中でも、最も重傷だったのかもしれない。
 




 PTSD




 
 心的外傷後ストレス障害。近年飛躍的に知名度を上げたその病状を何度か耳にしたことがあったけど、それがまさか自分の身に降りかかるなんて思ってもみなかった。
 
 あの時。
 
 俺は決して自分で足を滑らして階段から落ちた訳じゃない。
 
 階段を下りようと一歩を踏み出したその瞬間、誰かに背中を押されたんだ。そのまま階段を転げ落ちて、全身を打ちつけながらも必死で頭を庇った。それが幸いしたのか、落ちた直後もある程度記憶がはっきりしている。
 
 だから当然、朦朧としながらも視界に捉えたその姿は間違いなく覚えていた。
 
 何といっただろうか、名前をはっきりと覚えているわけじゃないけれど、それは確かにタマ姉を九条院に連れ戻しに転校してきた三人組。階段の踊り場は逆光になっていたけれど間違いない。
 
 俺を突き落としたのは、彼女達だ。
 
 確か玲於奈って名前の、三人のリーダー格が真っ青になって見下ろしているその目がはっきりと思い出せる。
 
 彼女達はそれほど深く考えた上での行為ではなかったのかもしれない。それはそう、ちょっとしたいたずら。おそらくは軽く背中を押すことで驚かせて、警告する程度にとどめておくつもりだったのだろう。







 ―――それが、最悪の結果に繋がってしまった。





 
 彼女達に怒りの感情は勿論ある。
 
 だからといって彼女達を告発しようとか、そんなことは全く考えなかった。実際に起訴に持ち込めば間違いなく勝てるだろう。言い訳をすることも考えられない。何故なら、医師から彼女達が憔悴した様子で自分達が犯した罪を自白したって聞いたから。


 ……勿論、又聞きだから信憑性にはかけるけれど、おそらく俺の入院費用なども彼女達―――正確には彼女達の親が支払っているはずだ。俺の名義じゃない口座から、病院に入院費が振り込まれているらしい。
 
 それに何より、彼女達は相応の制裁を加えられているに違いないから。
 
 『誰がお前を助けて、入院の手配をしたと思ってんだ!』
 
 ……確かに雄二は、そう言っていた。
 
 俺を助けたのがタマ姉だというのなら、タマ姉がその状況と遭遇した、という事だ。例え俺が落ちた後にタマ姉が現れたのだとしても、タマ姉は犯人を知っているに違いない。
 
 彼女達が罪を自白し、多額の現金―――おそらく慰謝料を振り込んでいるのには、きっとそんな背景があるはずだから。
 
 それに確かに、俺は意識が遠のいて消失するその瞬間に、誰かが口論する声を聞いている。
 
 それが誰の声で、どんな内容の話だったのかは覚えていないけれども、きっとそれがタマ姉の断罪の叫びだったのだろう。
 
 本気で怒ったタマ姉の怖さは、身をもって知っている。今は昔と違い、タマ姉もまだ小さかった頃以上に常識を知っている。だけどそれは時に、純粋な怒り以上な怖さを伴うこともあるのだ。
 
 常識とは規則。時として言葉は純粋な暴力以上に効果的なダメージを与えることがある。そしてその恐怖は、成長するに比例して大きなものになっていくのだ。
 
 ―――彼女達が何を言われたのかは知らない。知りたいとも思わないけれど、今以上に彼女達の罪を叫ぶ気にもなれなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 俺を助けてくれたのはタマ姉。
 
 それなのに、俺はタマ姉に対して辛く当たった。それがどうしてなのか、初めはわからなかった理由が次第に明らになっていった。
 
 事故の当日、春夏さんが俺の家から荷物を纏めて持ってきてくれた時、俺は何の感傷も抱かなかった。単に怪我をしたことで気が立っていたのかもしれないと、そう安楽的に考えていたんだ。
 
 「―――それにしても、本当に大丈夫? 何か困ったことがあったら何でも言ってくれって良いのよ?」
 
 「すみません、春夏さん。なんだか迷惑かけちゃって……」
 
 ベッドの脇に寝かされている腕時計の短針は、今にも八時を指そうとしている。こんな時間に来てくれたってことは、勝手も分からない俺の部屋から荷物を纏める時間を考えても、夕方という主婦にとって忙しい時間から俺の面倒をみてくれたことになる。
 
 もしかしたら食事の支度もしないで飛び出して来てくれたのかもしれない。そう思うと、俺は居た堪れない気持ちになった。
 
 だけど春香さんは少しばかり眉を上げると、軽く俺の額を小突いた。
 
 「コラッ! 子供が余計な心配をしない。タカくんも私たちの家族なんだから、遠慮なんてしない。分かった?」
 
 「―――はい」
 
 「よし、素直で宜しい」
 
 にこり、と表情を緩める。
 
 春夏さんはこのみと親子とは思えないくらいしっかりしているけれど、こんな風に笑ったときは本当に似ていると思う。
 
 「―――ああ、そうそう」
 
 言い忘れるところだったわ、と手を打ちながら、
 
 「あのねぇ、タカくん。―――二重底くらいだと、簡単にみつかっちゃうわよ? 大事なものはもっとしっかり隠さないと」
 
 「―――って、春夏さん!」
 
 火がついたように頬が赤くなっているのが分かる。顔が熱い。初めは何を言っているのかわからなかったけれど、二重底、という単語で思い至った。つまり、机の引き出しの……。
 
 「若いっていいわねー。青春ってやつかしら」
 
 「あ、あの、あれは雄二の奴が持ってきたものを―――」
 
 「照れない照れない。そういうお年頃、っていうしね」
 
 クスクス笑う春夏さん。……一目で看過されるほど簡単な細工じゃないと思うんだけどなぁ。
 
 「今度からは気を付けること。このみなんかが見たら真っ赤になって卒倒しちゃうから」
 
 
 
 
 
 ―――ッ。
 
 
 
 
 
 何だか、急に胸が締め付けられるような痛みが走った。
 
 それは、どこかで感じた感覚で。
 
 それをあの時の黒い感情と結びつけたのは、必然だった。
 
 
 
 「……タカくん? 大丈夫?」
 
 気が付くと、春夏さんが俺の顔を覗きこんでいる。我が子を気遣うように、俺の額に手を伸ばす。
 
 
 
 ―――既視感。
 
 
 
 どこかで、これと同じような状況を見た。そう、それはタマ姉の手を弾いたときと全く同じ状況で―――。
 
 
 
 ひんやりとした手が俺の額に触れた。
 
 「……熱は、無いみたいだけど、骨を折った後って熱が出ることもあるみたいだから。タカくん、頭も打ってるでしょ? 気持ちが悪かったら看護婦さん呼ばなきゃ駄目よ」
 
 春夏さんはナースコールに目をやっている。
 
 「……大丈夫、ですよ。少し、考え事してただけですから」
 
 心配させないように返事をしながら、俺は考えた。
 
 どうして、今は大丈夫だったのか。
 
 タマ姉が俺の額に手を伸ばしたとき、俺は反射的にその手を叩いていた。だけど、実際に今春夏さんが同じような行動をとったのに、俺は何の嫌悪も感じなかった。
 
 あの時俺の気が立っていただけ、と言うのならば、どうして今さっき、あの時と同じ気持ちを抱いたのか―――。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 後日出た結論から言えば、俺の抱えた心の傷跡が原因だった。
 
 カウンセラーとのカウンセリングを終えた俺の症状に対する結論がPTSD
 
 恨み以上に心に残ってしまった深い闇。俺の目は、世界を捉えるその間にフィルターをかけてしまっている状態だ。それが、自分が世界から一歩引いた場所から世界を眺めている、そんな感覚になる要因。
 
 
 
 
 
 女性、特に同年代のそれによる一次的接触に対する、過剰な拒絶反応。
 
 
 
 
 
 もともと俺が抱えていた女性に対する苦手意識が、今回の事件で悪化してしまった、というのが見解だ。ただ、それに伴う弊害はこれまでの比では無かった。
 
 同年代、という定義がどんな境界をもっているのかは曖昧だけど、事故の犯人のことを考えてみれば、おそらく制服を身に着けている年代、高校生くらいの女性に近いほどその反応が強まるみたいだ。
 
 それまで女性として意識していなかったタマ姉やこのみまでもがその対象に含まれる。それが原因で、タマ姉が俺の額に触ろうとしたときの拒絶に繋がったのだろう。
 
 幸いなのは、春夏さんや病院の看護婦さんには今までと同じくらいにしか抵抗を感じないこと。もしかしたら、意外に嫌悪感を抱いてしまう定義は狭いのかもしれない。
 
 それでもやっぱり、不安に思ってしまう。
 
 
 
 ―――これからどうなってしまうのか。
 
 
 
 歩くことさえままならない俺は、病院のベッドから外の景色を眺めた。
 
 気が付けば、事故から数週間が経過している。
 
 あの日見えた桜並木は、既に緑へと移り変わり、所々に残る僅かな薄紅色が寂しかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 数週間。
 
 言葉にしてしまえば短いその時間も、悠久の刻のように感じられた。
 
 全身に大怪我を負う俺の病状は、想像の遥か上を行く重症だった。全治六ヶ月、と聞いてもあまりピンとこなかったが、一ヶ月もすれば退院できるんじゃないか、学校に通いながらも安静にしていれば、支障はないんじゃないか―――。
 
 そんな甘い考えは、ものの数日で崩れ去った。
 
 脊椎などには奇跡的に問題が無かったとはいえ、両足を複雑骨折。右手も折れているし、あばら骨にも亀裂。そんな状況で寝返りでも打とうものなら、即座に激痛に苛まれる。
 
 初めは身動きが取れないように体を固定されてしまったくらい。
 
 そんな状態でできることなんて何もない。サイドテーブルの上の物をとることさえ出来ないのだから、そんな生活の一日がどれだけ長いかなんて、推して知るべし。
 
 食事をするにもトイレにも人の手を借りないといけない。……そんな日は最初の数日間だけだったけど、相変わらず自由に出歩けないのだから、時間つぶしにテレビを見たり春香さんに雑誌を買ってきてもらったり。食事は減塩食で薄味。当然おいしくないし、左手で食べないといけないから時間もかかって仕方がない。
 
 それ以外は、ただひたすら無味な時間が流れる。
 
 寝て潰せる時間なんてたかが知れているし、もしかしたら初めて学校に行けないことを辛く感じたかもしれない。
 
 まさに、生き地獄。
 
 
 
 その地獄に一筋の光を差し込んだのは、全身打撲の回復と順調な骨の癒着から、介護者が付いていれば―――勿論、時間制限はあるけれど―――車椅子で外に出ることが許可された、という一報だった。
 
 外、といっても病室の、という意味で、病院からの外出は許されていない。それでもこの小さな箱庭から抜け出せるなら何でも良かった。
 
 よく考えてみれば、二週間近く入院しているというのに、病室からトイレまでの道くらいしか知らないのだ。
 
 春香さんが来たら早速車椅子に乗って探索しないと。
 
 
 
 ……そう、そうでもしないと暇で死んでしまう。
 
 
 
 俺には見舞いに来てくれる人なんて、ほとんどいないんだからさ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 















 
 
 「本当に我侭言ってごめんなさい」
 
 「あら、春夏さんは嬉しいわ。タカくんの我侭なら何でも聞いちゃうから」
 
 いつもより低い視線。
 
 車椅子の視線から見るものは、何もかもが新鮮だった。
 
 自分で自由に動き回ることが出来ないから、春夏さんに押されるままに病院の中を見て回る。
 
病院自体は何度か来たことがある場所だけど、こんな一般病棟に入るのは初めてだし。せいぜいが内科とか外科の診療室までだったから、病院のなかで一日を過ごす人がこんなに沢山いるなんて思ってもみなかった。
 
 同じ色の患者服を着て、スロープを片手で掴んで歩くおじいさん。松葉杖を突いて歩く同じくらいの年の男は、リハビリだろうか。忙しそうに小走りで移動する看護婦さん。
 
 ここ数日で大体顔を覚えられてしまったのか、車椅子に乗っているとすれ違いざまに「よかったね」とか「頑張ったね」とかの言葉が掛けられる。
 
 なんとなく照れくさくて、会釈する程度にしか返事ができないけど、本当に病室の外に出られることが純粋に嬉しくて、掛けられる言葉の意味がよく分かった。
 
 それだけ、室内に篭りきりの状態が辛いことを、みんな知っているんだろう。だから笑って、外に出られたことが「よかったね」とか、辛い日々を過ごしてきて「頑張ったね」と言ってくれる。
 
 正直に言えば、病院の中なんて何処もそれほど面白いものではない。
 
 だけどそれでも、自分の視界がこうして動いていることにさえ感動を覚えてしまう。
 
 だからたっぷり三十分近く、俺は狭い院内をかみ締めるように見て回った。
 
 そしてその最後に、もう一つだけ我侭を言ったのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 「うわぁ……」
 
 思わず感嘆の声を上げてしまった。
 
 春風が優しく頬を撫でる。風が運んできた匂いに混じって、数枚の桜の花びらが飛んできた。
 
 病院の屋上。
 
 あんまり車椅子に乗っての移動が嬉しそうだったのか、俺の表情を見た看護婦さんがこの場所を教えてくれたのだ。
 
 各階の端に備え付けられたエレベーター。扉に大きく『関係者専用』と書かれたこの扉は、災害時に患者が避難できるように屋上へと繋がっている。
 
 この屋上、普段は休憩所のかわりに医者や看護士さんが利用する場所らしいけれど、実は患者にとっても隠れた憩いの場所になっているらしい。
 
 この事を知っているのは入院の長い患者達ばかりで、病院側も気分転換になる、との理由から屋上に上ることを黙認しているとのことだ。
 
 『これからしばらく入院するんだから、偶の暇つぶしには丁度良いわよ』
 
 そう言われて、早速登ってきたわけだ。
 
 「良い場所ね」
 
 「はい」
 
 本当に、そこは隠れた名所かもしれない。
 
 立地的に、この病院はこの街でも一番高い場所に建っている。その屋上からは、街の全景が俯瞰できた。身近な世界だけど、自分の街を高いところから見下ろすなんて滅多な機会ではない。
 
 高校の屋上も絶景ポイントだけど、ここからの景色はそれにも勝るかもしれない。
 
 ただ黙っているだけなのに、これまでの閉じこもっていた世界から解放されるみたいに心が洗われる。
 
 まだ日が沈むには早いけれど、そろそろ学校が終わった頃だろうか。学校の方から坂を下る人が豆粒みたいに見えた。
 
 「―――あら、いけない。そういえば宅配便、今日届く日だわ」
 
 春夏さんが声を上げた。
 
 「俺なら大丈夫ですよ。何とかして降りますから、春夏さんは帰っても……」
 
 「馬鹿なこと言わない。タカくんが一人でお部屋に戻れるわけないでしょう。……でも、屋上に上がってきたばっかりだし……」
 
 「それなら、俺はもうちょっとここに居ますから、春夏さんは留守電入れてきたらどうです?」
 
 春夏さんは、ぽん、と手を叩いた。
 
 「そうね。それじゃあ少しだけ、いいかしら」
 
 「どうぞ。ここで風に当たってますから」
 
 ごめんねタカくん、といって春夏さんは扉を開けて姿を消した。
 
 重い音をたてて扉が閉まると、何だかさっきまでと違う世界に居るみたいに静かに感じる。
 
 丁度午後の診療が始まった頃。お昼時には食事をとる人で賑わうかもしれないこの場所も、見回してみると俺一人だ。
 
 そう思ったとたん、ひょっこりと寂しさが顔を覗かせる。
 
 こんなに広い空間に自分ひとりしかいないからだろうか。
 
 意識していないのに、いつの間にか学校のあるほうを見ていた。……学校。本来なら今俺が今いるべき場所。
 
 大切な友人達と、ふざけあいながらも充実した毎日を送っていたはずの場所。
 
 
 
 
 
 ……あれから。
 
 
 
 病室での一件があってから、俺の部屋を訪れる人は限られていた。
 
 定時検診に来る看護士。暇があれば顔を出してくれる春夏さん。
 
 春夏さんは俺の話を聞いて、このみが見舞いに来るのを制止しているらしい。駄々を捏ねている、と聞いたけれど、もし見舞いに来ても俺は自分の意思とは関わりなく、冷たく接することしか出来ない。
 
 ……そう、俺が毎日タマ姉にしているように。
 
 ―――雄二はあの日以来病室に来なかった。俺の行為にそれだけ腹を立てているのか。雄二とは、昔からずっとクラスが一緒で、幼馴染ということもあってどんなに馬鹿みたいなことがあってもいつも一緒に過ごしてきた。
 
 そりゃあ、喧嘩をしたこともある。
 
 それでも次の日にはどちらからともなく和解して、またいつもみたいに馬鹿なことをする。そんな日々が日常だったのに。
 
 そんな日常は、あの日を境に狂ってしまった。
 
 誰が悪い訳でもない。
 
 雄二に非はないし、俺は言い逃れをするみたいだけど、好きであんな行動をとったわけじゃない。階段から俺を突き落とした三人組だって、こんな結末を運ぶためにあんな行為をとったわけじゃないだろう。
 
 
 
 ……結局、今度は誰が謝っても、何もかもが元通りになるような簡単な問題じゃないから。
 
 
 
 だから、今度こそは、いままでの腐れ縁に引導を渡すような、そんなきっかけだったのかもしれない。
 
 誰が望んだわけでもない結末は、ほんの少しの悪意と偶然が積み重なって、俺の運命に圧し掛かってきた。
 
 ……本当に、誰がこんな結末を望むのか。
 
 
 
 
 
 風を切る音。一際強い風が俺の体に吹き付けた。
 
 春の日差しは暖かいとはいっても、風はまだ冷たい。このまま体を冷やしていると、その内風邪をひいてしまうかもしれない。
 
 
 
 
 
 「―――くちゅん」
 
 
 
 
 
 ……あれ?
 
 俺はきょろきょろと辺りを見回した。
 
 何だか可愛らしいくしゃみが聞こえたような気がするんだが、屋上には俺しか居ない。
 
 ―――いや。
 
 よく見ると、屋上の端にある給水塔の奥にも、まだスペースがあるらしい。
 
 もしかしたらそこに誰か居るのかもしれない。
 
 そこまではそれ程距離があるわけではない。俺は自由になる左手を使って、タイヤをゆっくり前に進める。
 
 最近は体を無理に動かさない限りは痛みを感じない。折れている手足がギプスでがっちり固められているからだろうけど、それだけ回復に向かってるって事だ。
 
 それでもやっぱり、自分の体重を左手一本で動かすことは苦痛だった。
 
 まず、片方にしか力が働かないのだから真っ直ぐ進むことが難しい。バランスを取りながら、利き腕でもない手で前に進まないといけないのだから。俺は元々筋力があるほうではないし、最近の運動不足もたたってあっという間に額に汗が浮かんできた。
 
 少しずつ前に進んで、声のした方に近づく。
 
 やっとの思いで給水塔の影が見える位置に来たときには、息が切れ掛かっていた。
 








 
 
 「―――っ、誰!?」
 








 
 
 耳に届いた声は、さっきのくしゃみとよく似た声。
 
 そこに居たのは、同じように車椅子に乗った少女だった。
 
 ―――いや。
 
 少女、といっても、背丈で言えばこのみと同じくらいかもしれない。
 
 線の細い体に、まだ幼さの残る声だが、その瞳は人を見透かすような深みを湛えている。
 
 つまり。
 








 
 
 ―――俺の禁忌である、同年代の女の子。
 
 
 そう認識したとたん、俺の意思とは無関係に心がざわついた。









 
 「あんた、誰よ」
 
 少女の声は、険悪な空気を漂わせる。
 
 発した言葉に乗せられたのは、明らかな敵意だった。棘を持っているかのように、その言葉が他人に向けられる。
 
 「……お前こそ誰だ」
 
 「―――あたしが先に聞いてるの。黙ってさっさと答えなさい」
 
 かちん、ときた。
 
 どうして俺は敵意を向けられているのか。話しかけてすらいなかったのに、先制攻撃にとなるジャブを打たれた。
 
 しかも少女はおそらくは年下。
 
 たかが数年で先輩風を吹かせるきなんてさらさらないけれど、それでも人と接するのに礼儀というものがあるだろう。
 
 「俺だってお前みたいに礼節を欠く奴に名乗るつもりはないさ」
 
 「『お前』、なんて変な名前の奴は、ここにはいないわ」
 
 「生憎俺も『あんた』なんて知らないな」
 
 バチバチと火花が散る。
 
 いや、実際不可視の火花が飛んでるんじゃないかと思うくらいの緊張感。
 
 まさに一触即発、という雰囲気。
 
 ……この僅かな時間で、悟ったことがひとつある。
 
 俺、絶対この女と気が合わない。
 
 
 
 
 
 車椅子じゃなかったらつかみ掛かるんじゃないか、そんな状況を打ち破ったのは、突如飛び込んできた第三者の声だった。
 
 「郁乃ちゃん? どうしたのこんなところで」
 
 背後から聞こえた声。
 
 首だけで振り返ると、そこにはどこかで見た看護婦さん。……それがこの場所を教えてくれた看護婦さんだと気が付くまで、時間を要さなかった。
 
 「……別に。ただ風にあたってただけ」
 
 「―――貴明くん、郁乃ちゃんと知り合いだったのかしら?」
 
 「いいえ。今初めて会いました」
 
 面識があれば、間違いなくこんな女には話しかけない。
 
 「もういいです。そろそろ病室に戻ってもいいですか?」
 
 さっきまでとは打って変わって猫を被る。
 
 「そうね。それじゃあ、戻りましょうか。貴明くんは?」
 
 「―――大丈夫です。すぐに迎えが来るので」
 
 「そう? それじゃあ、風邪をひかないでね」
 
 看護婦さんは猫かぶりの車椅子の後ろに回ると、そのまま車椅子を押していく。
 
 横を通り過ぎたとき、俺は一つ仕返しを思いついた。
 
 
 
 
 
 「―――じゃあな、『郁乃』」
 
 
 
 「……気安く呼ぶな、『バカ明』」
 
 
 
 
 
 郁乃は無表情で向こうへと消えていく。
 
 
 
 ……何か、腹立たしい。
 
 この病院に入院している限り、また会う可能性もあるのだろうか。
 
 そう考えると気が重い。
 
 
 
 
 
 ふと、気が付いた。
 
 あれ、俺、普通に―――?
 
 
 
 振り返る。
 
 そこには誰も居ない。郁乃は既に病院の中に戻ってしまったようだ。
 
 
 
 今。
 
 郁乃との会話は確かに苛立たしかったが、それでもその中であの闇が顔を覗かせることは無かった。
 
 確かに同年代の女性を相手にしていたのに。
 
 
 
 
 
 俺の心は、妙な苛立ちと少しの嬉しさを混ぜ合わせたような、複雑な気持ちになった。
 
 何ともいえないこの心情を紛らわすために、俺が出来る事といえば一つ大きなため息を吐くこと位だった。